こんにちは、神崎慎一郎です。
日本人なら知らない人はいないとまで言われる有名人「ヤマトタケルの命」についてお話をしましょう。
この人物。静岡では有名人であり、草薙の剣はこの地の草を天の叢雲の剣で刈ったことに由来します。
ヤマトタケルのお父さんは景行天皇ですが、一般的にはこの名前で呼ばれますが和風諡号(わふうしごう)では「オホタラシヒコ・オシロワケノ・スメラミコト」といいます。
これは死語につけられた仏教でいう戒名のようなもので天皇とは読まずにスメラミコトとよみます。
この景行天皇の息子がヤマトタケルなのですが、もともとヤマトタケルと名乗っていたわけではありません。
最初の名は、小碓命(ヲウスノ命)といいました。
妙な名前ですが、この名前の由来はこうです。
実は双子の兄弟でした。兄を大碓命(オオウスノ命)といいます。
これは彼らが生まれるとおきに景行天皇がりっぱな元気な子供が生まれるようにと碓を背負って家の中をぐるぐると歩き回ったことからこの子供につけられたといわれています。
それではヤマトタケル誕生秘話をお話ししましょう。
ある時、スメラミコトがヲウスノ命に「何故そなたの兄は朝夕の食膳に姿を現さないのか」とたずねられ、「お前からやさしく教えさとしなさい。」といわれました。
ところが、5日たってもいっこうに兄は現れません。
そこでまた天皇がおたずねになった。「どのように教えさとしたのだ。」と・・・・。
ヲウスノ命が申すには、夜明けに兄が厠に入ったとき、待ち受けて捕え、つかみ打って、その手足をもぎ取り、こもに包んで投げ捨てました。」(兄が言うことを聞かないので殴って取り押さえて動けないように手足をもぎ取って、す巻きに巻いて捨てました。)と答えた。
(実はこの話はもともと景行天皇が城外を散策中にとても美しい姉妹を見つけ、ぜひどちらか一人を妻にしたいという話から始まる。そこで大碓命に見てくるように命じる。しかしさすがに親子、ひとめでこの姉妹を気に入ってしまった大碓命は両方とも自分のものにし、子供まで生ませてしまう。ここで親父とけんかになり朝食に顔を出さなくなったということのようだ。自業自得なのだ。)
天皇はヲウスノ命の荒々しい性格を恐れ、「西にクマソタケルという兄弟がいる。この者たちは朝廷に屈しない無礼な者どもだからお前が行って討ち滅ぼしなさい。」と仰せになった。
ヲウスノ命はクマソタケルの新室祝いに女装をして紛れ込み、クマソタケル兄弟の間に割り込んで隙を見て兄の襟をつかみ短刀を胸から刺し通した。
それを見た弟は恐れおののいて逃げたが、室の階段まで追って行き、その背の皮をつかんで、尻から短刀を突き立てた。
その時クマソタケルが申すには、「あなた様はどなたでいらっしゃいますか。」
ヲウスノ命が申すには「私はヤマトオグナノ御子」であると「天皇は西にクマソタケルなる兄弟が、朝廷に背いておるから成敗してくるようにと仰せになった。」そう言った。
するとクマソタケルは「ヤマトの国にも私たちにも勝る勇敢な方がおいでなのですね。ならば私の名をあなた様にさしあげますから、どうかその剣を動かさないでください。」と懇願した。
しかしこれを聞くとヲウスノ命はよく熟れたウリを裂くように殺してしまった。
この時から、ヲウスノ命は「ヤマトタケル」と名乗ったそうです。
そして帰り際に、山の神、河の神、海峡の神をみな服従させ都におかえりになりました。
朝廷が手を焼いていたクマソをいとも簡単に成敗した小碓命に驚いた天皇は、すぐに東国12ヶ国の蝦夷や荒れすさぶ神を討伐し、国を平定するようにと仰せつかった。
ヤマトタケルは、泣く泣く蝦夷盗伐に向かう。
その途中で伊勢神宮に詣でた。そこには叔母のヤマトヒメの命がおいでになり、ヤマトタケルは彼女にぐちをこぼす。
ヤマトヒメはヤマトタケルをなぐさめ、スサノウの命が、八岐大蛇を退治した時、その尾から出てきた天の叢雲の剣と火打石が入った袋をヤマトタケルに手渡した。
ヤマトヒメは「窮地に落ち行ったときにはこの袋を開きなさい。」と言われた。
タケルはこれを持って東征に出かけたが、実はこの剣と袋が彼の生死を分ける重要なアイテムであることにまだ気づいていなかった。
ヤマトタケルは尾張に到着すると、ミヤズヒメの家にお入りになった。
とその家にいた娘を見るなり、ひとめぼれをして妻にしようと考える。
しかし、今は父に言われた東征を成し遂げ平定するという使命があったため、ミヤズヒメと結婚の約束をすると、再び東征にお出かけになる。
古事記では相模の国にお着きになったとき、とあるが、景行天皇記には駿河の国とあるので相模は間違いであるようだ。(当時どこからどこまでがこの国というような分け目がなかったため、記録間違いとされている。)
ここまで来るとその国の都(みやつこ)がヤマトタケルをだまして言うには「この野の中に大きな沼(静岡の麻機沼ではないか?)があります。
この沼の中に住んでいる神はひどく強暴な神でございます。」とだましてきた。
そうとは知らないタケルがその神を見るために野に分け入ると、都は野に火を放った。
だまされている事に気づいたタケルは自分の周りの草を払い、火打ち石で迎え火をつけ窮地を逃れたのだった。
このとき天の叢雲の剣で草をはらったので、この地を草薙と呼び、この剣を「草薙の剣」と名づけた。
その後、この国の都どもを皆成敗しその地に火をつけた。その地を焼津という。(つまり、この地の豪族は今の焼津に住んでいてその地を焼き払ったということのようだ。)
ヤマトタケルは東征を成し遂げ、帰る途中、尾張によってミズヤヒメとご結婚されたが、東征の帰り道であったため、再び荒れ狂う神を平定するため、伊吹山に向かってお出かけになる。
この時、草薙の剣をミズヤヒメのところにおいていかれる。
実はこの剣はヤマトヒメが荒ぶれる神から身を守るための神剣であったことにヤマトタケルは後から気づくことになる。
この剣はもともと「錘刈の太刀(つむかりのたち)」と呼ばれていたそうだ。これは稲穂の穂を刈り取るときに使われたからそう呼ばれていた。
穂をつむとは竜爪山の神社を「穂積」いうことなどを考えると偶然ではないような気がする。静岡の「御穂(みほ)神社」も同じである。(穂という言葉には何か秘密が隠されている気がしてならない。)
そして無謀にも素手で伊吹山の神に戦いを挑み帰らぬ人となってしまいます。
このことにひどく悲しまれた景行天皇がヤマトタケルの足跡をたどり駿河の地この静岡にやってきてやタケルの功績をたたえてこの地に草薙神社を建立する。(このこともここ静岡の地がヤマトタケルという人物にとてもゆかりの深い因縁とでもいう何かを感じる。古事記には深く触れられていないが、調べる価値はありそうだ。)
そして「草薙の剣」神社に奉納した。とあります。
また、静岡に残る日本平いう地名は、もともとヤマトタケルにちなんでヤマトダイラと名付けられていましたが、東征のおり、ヤマトタケル(大和健)が日本武尊とかかいてヤマトタケルと読むとしたことから日本平となったと言い伝えられています。
しかしこの山はもともと有度山とあります。
実はこの山の山頂部の平らな部分をヤマト平と名付けていたそうです。ここにも何か逸話が残っていないか調べてみたいと考えます。
またこの地は古墳(八幡山(やはたやま)や賎機山も古墳。また清水の庵原地区には前方後円墳もある。)も多く、かなり有力な豪族が住んでいたのではとも言われていますし、草深い地に沼とくれば、麻機沼しか考えられず、まさにこの地が草薙伝説の地として間違いないと考えます。(静岡には草深という地名もある)
またこの草薙神社ではリューセイ花火が打ち上げられますが、私はもともと「流星」だと思っていましたが、実は「龍勢」だと知って、驚きました。
かなり大型で見栄えのするお祭りのようですね。
これはまさに龍が天に上るさまを表している光景だと感じました。
またこの草薙神社はもともと、今の大きな鳥居のそばにありましたが、街道を葦毛馬(白馬)で通ると必ず落馬するとされ、もともとの場所から数キロ奥に神社を遷都しました。
元あった神社の後は、いまはひっそりとアパートのわきに「本宮」と書かれた小さな鳥居と祠、そして丸い石がおさめられています。興味のある方はぜひ訪れてみてはいかがかな!
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