こんにちは神崎慎一郎です。
ヤマトタケルと駿河の国の関係についてお話します。
なんでもそうですが、物事がそこに起こるということは、その起こる理由があって起こるものです。
つまり、原因があって結果があるからです。
すべての出来事はここに集約されます。
幽霊や心霊現象に至ってもそこに原因があるから幽霊が現れるのです。
私は科学論者ではあれいませんが、この世に存在する出来事はすべて科学的に理論立てて証明できるものと考えます。
神様に至っても私たちを超越する力を持ち物的事象を起こす限り、それらの現象を科学的に証明できれば同じことを起こすことができます。
そう考えると私たちの現代科学はこれと同じようなことをしています。
たとえばジェット機で空を飛んで素早く移動したりします。
昔神様の乗り物に「天の浮舟」なるものがありましたがこの船、24時間で地球を1周します。当時から考えれば地球1周を24時間なんて考えられない高速だと思います。ただ地球という概念とか1周なんてことを考えていたのでしょうか・疑問は残ります・・・・。
このように現代科学は昔の神様と同じような錬金術を行っています。
私たちは大昔に起こったであろう出来事がいろんな書物に書かれていますが、これらのことを鵜呑みにするのではなく、その場に赴いて自分たちの目で確かめることによって真実に近づく努力をしています。皆さんが不思議だと思われることに科学的にメスを入れていきましょう。
今回は日本武尊(やまとたけるのみこと)についてです。
日本武尊は第十二代天皇・景行天皇の皇子であり、第十四代天皇・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の父である。(第十三代天皇は叔父にあたる成務天皇(せいむてんのう))
幼少期は小碓(おうす)の命と言いました。ヤマトタケルには双子の兄がいて大碓(おおうす)の命といいました。
なぜ、大碓、小碓と名付けられたかといえば、父の景行天皇が、妻の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)の出産の際、元気な子供が生まれるようにと碓を縄で縛り背負って、祈願していたところ、出産の知らせを聞いて慌てて碓を下した際、この碓に自分の足にぶつけてしまった。あまりの痛さに悲鳴を上げましたが、出産という目出たい出来ごとには代えられないと双子の兄弟に大碓、小碓となずけたのでした。
時は過ぎ、青年となった大碓、小碓でしたが美濃の国造(みやつこ)オホネの王(みこ)の娘エヒメとオトヒメという姉妹が実に美しいということで父の景行天皇が自分の側室にしようということになり、様子を見るために大碓の命を遣わした。
ところが絶世の美女であったため、大碓の命はこれら姉妹ともに自分のものにしてしまった。
父の景行天皇には嘘をついて別の女を差し出したが、この嘘に気付いたために親子の仲が悪くなり、食事も一緒に取らなくなった。
ある日、景行天皇が小碓の命に兄の様子を見来るように、食事を一緒に取るようにやさしくさとしてくるように小碓の命に言った。
ところが数日たっても大碓の命は姿を現さない。もしかして小碓命がまだ兄をさとしてないのではと小碓の命に問いかけると、小碓の命はちゃんとさとしたと言った。
そこで景行天皇はどのようにさとしたか尋ねた。
すると小碓の命は「兄が夜明けに厠に入ったので、待ち構えて捕まえ殴ったうえ、手足をもぎ取って厠へ投げ捨て殺した。」と言った。
天皇は、小碓の命の恐ろしい気性に驚き、言うには「西のほうにクマソタケルという兄弟がいるこの者どもが朝廷に歯向かうため、退治してきなさい。」と仰せになった。
小碓に命は叔母の熱田姫に助けられ、天皇の言葉の通りにクマソ兄弟を成敗し、九州を平定した。このときクマソ兄弟が名乗っていた「タケル」を我が名とし、大和の国のタケルとして「ヤマトタケル」と名乗ったのである。
驚いた天皇であったが、都にもどった「ヤマトタケル」に天皇が仰せになるには東方12ヶ国の荒れすさぶ神や服従しない国を平定してくるように言った。
このとき、ミスキトモミミケヒコという人物を副官に添え、ヒイラそして伊勢神宮の叔母を訪ねなげくには、「父は私など死んでしまえばよいと考えているのでしょうか?」と叔母の熱田姫に泣きついたのであった。
叔母は天の叢雲剣と火打石の入った袋を渡し、「もし火急のことがあったらこの袋の口を開けなさい。」と言って渡した。
やがて駿河の国に入ったとき(古事記では相模とあるが神奈川には草薙も焼津もなく日本書紀の駿河が正解)実は相模国造と名のったのは最初から駿河だと悟られないようにするためだったとわたしは推測した。ヤマトタケルは本来なら十三代天皇になる皇太子。これを殺すことはまさに天皇殺しとなる。それが国造となればどこのものでも朝廷から指名手配されるばかりではなく、一族郎党皆殺しに合うことは明白であった。
このため、最初から村人一同がグルでヤマトタケルを騙していたのだろう。
考えてみれば勘違いで相模と言っていれば、誰かがここは駿河の国だと誰かが教えてくれるはずである。
ヤマトタケルは最初から完全に騙されていたのだと推測される。
国造とは朝廷から派遣された県知事のような役人だったため、なおさらまずい。しかしながらこの一連の事件の本当の首謀者が誰であったかは定かではない。
つまり駿河国造は相模国造に殺人の罪を擦り付けようとしていたのである?
結局、ヤマトタケルは相模の国造と名乗る人物に騙されて「このアシ深き野には大沼があってひどく乱暴な神がいるので成敗してほしい」と頼まれます。
そこでその神を確かめようと野に分け入ったところ、国造に火を放たれてしまいます。
慌てたヤマトタケルは騙されたと気づき草(葦)を剣で薙ぎ払い、袋を開け火打石で迎え火を付けて難を逃れた。
ヤマトタケルの暗殺に失敗した国造は西に逃走を図るが、焼津でとうとう追いつかれ、ヤマトタケルに一人残らず切り殺されて、お返しに火を放ちこの地を焼き払った。このためこの地を「焼津」という。
津というのは港のことであり間違いなくこれは今の焼津市を指す。このことは焼津神社を参拝するとよくわかる。
またアシ深き大沼とは駿河の国今の静岡市にあった今の麻機沼示している。昔の古地図には駿府に広がる大沼がありこの沼に合致する。
また草を刈った場所はまさにこの沼のほとりであり、以前は逆さ川も存在した。
ここには草薙という場所が存在し、ここに草薙神社がある。景行記という景行天皇がヤマトタケルの死を悲しんで東征した地を巡った記録の中にこの草なぎの剣を奉納し「草薙神社」を建立したとある。
このとき、記録にあった相模という記録は間違いであり、駿河と訂正されている。
また日本書紀でも駿河と改められており、この静岡が草薙伝説の地であることは間違いない。
一方、静岡の有渡山にある平の部分を日本平と呼ぶが、ここはもともとヤマトタケルが火攻めにあった後、この高台から駿河の地を眺められたことから住民がヤマトタケルにちなんでこの地を「ヤマト平」と名付けたがヤマトタケルが「日本武尊」と書いて「ヤマトタケル」と読む。と改名したためこの地を日本平という。
日本平には熱田神宮からこの地が伝説の地であるという日が建てられヤマトタケル像も存在している。
これは古事記ではなくすべて日本書紀から引用されていると考えられる。
当然と言えば当然である。古事記は江戸時代に偶然見つかった書物で上、中、下巻の3巻で40時間くらいの口語をまとめた書物です。一方、日本書紀は天皇家に伝わる伝承本で30巻にも及ぶかなり大掛かりなものです。
また作成時期は古事記は712年とされていますし日本書紀は720年と実はほぼ同時に作成されている。一見、古事記のほうが随分と古く感じるのは私だけだろうか?
このことから日本書紀が古事記より有力視されている。
しかしながら日本書紀は目線が天皇家であり、時の権力者のいいように改ざんがあったかもしれない、一方、古事記も口語ということでおとぎ話感がぬぐえない。また人の記憶の中での話のため、他の話が混ぜられて話が作られた可能性もぬぐえない。誰か早くこの謎を解き明かしてくれないか?
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