こんにちは、神崎慎一郎です。
今日は清水についてのお話です。
清水といえば、今は静岡市の一部、清水区となっていますが、
この清水という名前の由来を知っていますか?
たいていの人は清い水が流れていたからとか、
どこかに泉でもあったとか、
清い川が流れていたとか思いますよね。
もともとこの駿河は飛鳥時代に珠流河国造(するがみやつこ)と庵原国造(いはらみやつこ)が合併して新造国として誕生いしました。
どちらかといえば古代においてはこの庵原氏の力が強く「ヤマトタケル」統制の折、
この地の国造がヤマトタケルを暗殺未遂の末、失敗し逃亡、ヤマトタケルが焼津まで
追いかけて成敗したため、国造が不在となり、従者の吉備武彦に「この地を納めるように」と命ぜられ、庵原氏の祖となった。
以後末永くこの地を納め倭国の軍隊を率いる将軍としてもたびたび歴史上に登場する。
事実、ヤマトタケルが火攻めにあった葦深き清き沼とは静岡から清水に向かって広がっていた湿地帯を示している。
私が知る限りでは、現在の清水区鳥坂は土地が低く大雨が降るといつも浸水していたし、
今も土地が軟弱なのは有名である。
また歴史によく登場する狐ヶ崎近辺から清水ではなく静岡側に流れている川を「逆川」と呼んでいた。
巴川は今の麻機から清水に向かってゆっくりと流れているが、逆川はこの流れに逆らって静岡側に流れていた。
このため、駿府城の北側の城北地区から東に向かって麻機、瀬名、鳥坂、長沼、国吉田身辺に来るまで広大な沼地が広がっていた。
私の祖母は明治生まれであったが、北沼上に嫁に行くときは麻機村の船戸屋から
船で瀬名まで行き、徒歩で北沼上まで上がっていったと話してくれた。
本来なら麻機と北沼上は山を隔てて反対側なので山を越えれば早かったが、
嫁入りのため船で行ったということだった。
実は近年まで大きな沼地が広がっていたことよくわかる。
このため清水には川はおろか水という水は静岡に流れ込んでしまっていた。
清水庵原には豪族が住んではいたが水はなく、この地を掘り返すと「ニガ水(海水)」が湧いて出たそうです。
清水のいわれに話をもどしましょう。
清水区に上清水という場所があります。
すぐ近くに浜田小学校があり、ここに「チャンチャン井戸」なるものがあります。
これがそうなんですが・・・・。
今はこんな感じなんですね。
いわれは、
800年ほど前ある旅の僧侶がこの地に流れついたが、疲労で倒れてしまった。村人は手厚く介護をした。すると僧侶は数日で元気を取り戻し、恩返しにとチャンチャンと金を打ち鳴らしお経を唱えながら村人が難儀をしていた井戸探しの手伝いをして歩きました。
数日の間、探し回った僧侶が指し示す場所を村人が総出で掘ると、その場所からこんこんと清水が湧き出てきました。
そしてこの井戸は誰となく僧侶の打ち鳴らす鐘の音にちなんで、チャンチャン井戸と呼ばれるようになったといわれています。
この井戸の水は清く、飲み水に適していたため、遠くからこの水を汲みに来たと伝えられています。
このためこの地を清水と呼ばれるようになったそうです。
よくよく考えてみてください。静岡は駿府からの新しい名ですが、清水は1000年近く清水のままなんですね。
駿河の国の中心都市は現在の清水区庵原に置かれていました。
あの武田軍も清水港に武田水軍を展開し、江戸時代には塩などを江戸に送る拠点とされ、幕府の水軍もここを基地としていました。
清水はもともとは「志ミづ」と呼ばれていたことが昔の道標からうかがえます。
そう考えると古代には拠点は庵原、その中の都市が清水と駿府であったようですね。
清水区庵原にはいくつもの円墳や前方後円墳が出土しているんですよ。
清水ナショナルトレーニングセンタ前にある大きな前方後円墳は清水港を望む風通しの良い場所に立っています。
みなさんもぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか?
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