先日、富士吉田にある「北口本宮富士浅間神社」に行ってきました。
なかなか趣のある由緒ある神社でしたがここに来た理由は富士古文書、別名「宮下文書」なる古文書の存在でした。
日本にはかなりたくさんの古文書が存在していますが、その中の一つが静岡に近い富士山のふもとにあるのです。
それではなぜ日本にはたくさんの古文書が存在するのでしょうか?
日本の古文書と言えば記紀が有名ですね。
言わずと知れた古事記と日本書記です。 でもこれらが一番古い書物かというとそうではありません。
古事記が712年、日本書記は720年という時代のものです。
古事記というとえらく古く感じますが日本書記と大差ない年代です。
ではなぜこんなにも完成した年代が近いのかという説明をします。
もともとは曽我家に牛耳られていた政権を天皇家に奪還するために時の権力者曽我入鹿(そがのいるか)を中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)のちの天智天皇と藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が暗殺したことに端を発する。
息子入鹿(いるか)を暗殺された父親の曽我蝦夷(そがのえみし)は天智天皇とたたかうが蝦夷は破れ天皇記や国記、その他の珍宝を道ずれに館に火を放った。
これを乙巳の変(いっしのへん)と言います。この変の後に行われたのが「大化の改新」(西暦646年)なんです。 学校で習いましたよね。
実はこの日本国にとっては最も重要な出来事だったんです。 もともと曽我氏は韓(から)と言いますから今の韓国の出身で当時日本にはこの韓からの出身者が多くいましたがこれをことごとく打ち破り曽我家は滅亡します。
このとき日本の歴史を書いた「天皇記」や「国記」、「旧事(くじ)」などが失われてしまい日本の歴史があいまいになってしまった。
このため大化の改新と時を同じくして日本の正式な歴史書として日本書紀が編纂されることとなります。
大化の改新は一時的なものではなく孝徳天皇および天智天皇、天武天皇、持統天皇と4代にわたり行われ、一連の改革の中で、日本書紀自体も熟練度を増したと考えられるのです。
また日本書記の編纂には日本中のあらゆる歴史書が集められ研究されたと考えられます。日本書紀の神代の部分を読むとこの古文書ではこう言っているとか、別の書物では別の説だとかという書き方をしていることからも、今回の宮下文書も少なからず影響を及ぼしていると考えられるのです。
日本書紀が編纂された本質は主に神代ではなく現世部分にあったのですが、神代の部分は当時すでに分からなくなっていて、それ記した正式な書物がない状態だったために日本各地の古文書がかき集められ研究されたと推測されます。
事実、天武天皇の時代に川島皇子(かわしまのみこ)以下12人の賢者に対して各々それぞれの古文書をかき集めるようにと御触れを出し、日本書記が編纂できるようにと命じた。 日本書記は神代(かみよ)から持統天皇までが編纂されたことからも持統天皇の代まで編纂が続いたことがよくわかる。 日本書記の神代の部分は宮下文書などからなるいろんな古文書の共通部分を抜粋し、歴史的に怪しいと思われる部分は切り取られて編纂された。
したがって古事記が日本書記より古いのは当然であり、古事記自身日本書紀の編纂の一部として使われたものだろうと推測される。 現在する古事記は原文ではなく1372年真福寺の僧によって写本されたものが一番古いが、712年に旧事や帝紀を読んだことのある稗田阿礼が口語で話した40時間分を太安万侶によって書き留められ、訳されたもので、人が読んだ本を思い出して語ったものを書かせたにすぎないのである。
このためあいまいさが残ったり、勘違いで他の話と混同してもおかしくない。 宮下文書 富士吉田にある宮下家に伝わる古文書が「宮下文書」である。
古事記の中には神代の世界に大きな国がいくつか現れる。神様が住むといわれる「高天が原」そして国ゆずり登場する「葦原中津国」である。
古事記では何度もこの国が登場するがどこにあるのかということが記されていない。 この高天が原は「宮下文書」には富士山ろくにあったと書かれているのだ。
この古文書は全くの偽書とされているが、こと富士山の噴火の歴史に関してはどの古文書より正確であり一部の歴史家には信ぴょう性があるのではともいわれている。
神埼慎一郎説ではあるが、ここで古事記を読み返してみよう。 古事記の国譲りの段では、大国主が築いた「葦原中津国」を突然、天照大神が何が何でもわが息子たちに継がせたいと言い出します。 この話の発端はどこにあったのだろう。 「住みやすい高天が原があるのに、なぜ下界にわざわざ住みかを求めたのだろうか」と思ったのですが、その真相が高天が原富士裾野説と富士の噴火にその謎があり、宮下文書に書かれている。
高天が原は富士山山麓一体あったが、富士の大噴火により滅び去ってしまう。
人は何とか生き残るが住みかがなくなってしまうのである。
書には富士山麓を含む72か所から噴火があり、一帯を溶岩と火山灰が覆いつくしたとされる。 ここには少し語弊がある。 滅び去ったのではなく、住めなくなったではどうだろうか? こうなれば、強い軍隊を保有したまま住めなくなったのだから、隣国の「葦原中津国」を「高天が原」が攻めても不思議はない。
これなら国譲りも納得が行く。 もしかすると大国主が少彦名という相棒とこの国を作ったことを考えれば、葦原中津国を奪うために少彦名は暗殺された可能性も高い。
彼は「はじかれた」と古事記には記されている。 はじくつまり殺すである。
一方の「葦原中津国」は神崎説ではこの静岡から長野にかけての広大な国と認識している。 高天が原が富士山麓なら葦原中津国がその近辺にあったと考えるのが筋だろう。
そうなれば吹き飛ばされた天の岩戸が飛んでいきやすい場所。長野の戸隠は戸を隠さねばならないほど近かったのだ。
新設国譲りがますます信ぴょう性を得てくる。
富士は竹取物語に出てくる「不死」の薬をおじいさんが焼いた山なら当然これがなまったもので「富士山」となったものだろう。
徐福が始皇帝の命令で不死の薬を求めたのはこの富士山であり、宮下文書を現代人にわかりやすく書き起こしたのも彼だとされる。
「高天が原」は天上界ではなく現実の都市だったとすると今年はこの話題でミステリーハンターの触手が動き出しそうだ。
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