機の謎
先日、改めて麻機地区を調べてみた。実は私はこの地域に30年近く住んでいるが、見たことのないものや、聞いたことのない石碑や祠がたくさんある地域だとつくづく感じる。特にミステリーハンターなどやっているからだろうか、ついつい意識してしまう。
もともと徳川家康の謎を追って府城から、鬼門方向の竜爪山を調べ始めた。すると面白いことが次から次へと浮かんでくる。
特に興味深いのは、竜爪山と麻機を結ぶ山の稜線に比較的平らな部分があってここを「般若平」呼ぶことだ。不思議な名前だ。それに何故、竜爪山から麻機なのだろうか?大きな疑問がわいた。
そうこうしているうちに大昔、天から突然、降ってきた謎の大般若心経600巻の伝説にたどりついた。
「天から般若心経」とは不思議なものだ。
ひらひらと長くなって降ってきたのか?それとも巻物に巻かれた状態で降って来たのか?実に興味深い話ではあるが、それにしても何故、経文は天から降るのか?
考えているうちに聖徳太子の親族が中国から持ち帰った経文が、紛失した事件があったことを思い出した。
それとの因果関係があるのだろうか?
仮に経文が天から降ってきたなど、大嘘だったとしても大般若心経600巻をそろえるのは大変な作業だと思う。
般若心経は全600巻の経文だと聞いた。写経も確か600巻単位で行われたと記録がある。
実はこの経文すべてが梵字で書かれた「大般若経」だそうだ。つまり当時の村人や並の寺の住職でも読むことすら出来ない代物だという。当時の住職でもとは言い過ぎだとしても(実際、当時の梵字が理解できた人間がこの日本にどのくらいいたかというととても疑問に思う。)、村人にはちんぷんかんぷんな文字の羅列だろう。
聖徳太子の親族が中国から持ち帰った経文が、梵字といえばそう、明らかに中国から伝来したものに違いない。そう考えれば梵字という特別な文字で書かれていたことに納得がいく。
百歩譲って、これが誰かのいたずらだとしても、実に手の込んだ大芝居だっただろう。ましてや当時の村人たちがこんな手の込んだ嘘はつけないと思うのだが・・・・。みんなさんはどう感じるだろうか?実に興味深いとしか言い難い話である。
またこの付近の山頂には砂地が存在したようだ。この砂地を「般若砂」と呼ぶそうだ。今はこの般若砂がどこにあったか?どんな状態の場所であったのか?どのあたりかはだいたいしかわからず、特定することはできないが、限られた地域だけに探索してみる価値あると思う。
色々と考えていくとこの地の伝説や呼び名が不可解な謎となってきた。
私の祖母は麻機の出身なのだが、北沼上に嫁に行っている。
明治生まれの人だったが、麻機の船渡屋から船に乗って麻機沼を渡っていったと聞く。
当時の麻機沼は大変大きく、船で渡らないと迂回するのが大変だったようで、今で言う利倉神社(昔、小さい頃は水無神社と呼んでいたが・・・。)まで船で行き、後は徒歩で北沼上まで行ったそうだ。
本来なら麻機北から北沼上(北沼上小学校あたり)に抜ける山越えのルートが存在したそうだ。若い女性がましてや嫁入りの日のことを考えると山越えは考慮されなかったのだろう。またこの山越えルートは北沼上までは、最短ルートで人々が頻繁に行き来していたと聞くが、現在は荒れていて通るのが大変困難だと聞く。
実は、竜爪山への登山ルートはこの麻機からだったのではないかと私は考えている。面白いことに駿府からこの麻機に至る道すがらは、小時、草場などの地名が残っていて、冥土めぐりのコースのようになっていたと聞いている。
また秋葉灯も存在する。はて?この麻機に秋葉灯とはと思った。
この秋葉塔、秋葉神社の参拝のための灯篭のはず、私の知る限り麻機には秋葉神社は存在しない。
しかしなんと北沼上の良富院脇に鳥居があることを確認した。お寺に鳥居とは珍しい。叔父に聞くとここを登ると秋葉神社があると教えてくれた。たぶん分社があるのだろう。ここからは静岡市が一望できるそうだ。お寺に神社の鳥居とは変だと感じていたが、こんなからくりがあったとは驚きだ。つまり駿府城内と麻機はつながっていたのだ。
そもそも、竜爪山への登山ルートが麻機からであったのではないかという根拠はまだある。
北沼上は私の祖母の家があるが、この家の裏山を「権現山」という。小さいころは親戚一同でよくみかんを狩りに行ったが、当時は山の名前など気にしていなかった。今考えると、「権現」とは「竜爪権現」そのものであり、ここからは竜爪が間近に拝めるのだ。まさしくここが麻機から続く竜爪山への登山ルートの一角であったと考えられる。
また駿府から鳥坂までは大きな沼地が広がっていたと述べたが、これを考えると駿府から瀬名新田までは船による交通手段ということになる。お金のかかるルートだ。また梶原山を迂回する西奈ルートもあるが、沼を大きく迂回して霊山寺方面から山沿いを行くことになり、いささか遠回りのような気がする。そうなると必然的に麻機が竜爪山の登山口だったと考えても、何らおかしくない。だとしたら、「般若平」や「般若砂」などの地名や大般若経の伝説もうなづけるのではないだろうか?
当時から麻機地区は多くの村人が、居住していたようで駿府の中でも栄えていた村だと聞く。祖母の話だと「なんで都会の麻機から田舎の北沼上に嫁にいかなければならないのか」と思ったそうですが、ここが駿府でも有数の村(都会)と感じたのはそのせいかもしれない。
このようなことから北沼上と麻機の関係が密接に絡み合い、天から降ってきたといわれる大般若経600巻と実に深い関係を作り出していたことがわかってくる。
麻機と北沼上またがる、この峠は竜爪山に至る登山ルートであり、麻機に伝わる伝説が、竜爪伝説と似通った伝承で残され、混同される背景に納得がいく。また北沼上小学校のすぐ上の「良富院」と麻機北の滝のそばにあったとされる「龍泉寺」に大般若経600巻を分け合って建立したことの伝承にもこのような密接な関係があったと推測される。
ただし現在、良富院は存在しているが、龍泉寺は廃寺となって跡形もない。ただし、龍泉寺の痕跡はある。麻機北の奥、新東名近くに、あったとされる滝である。こんな場所に立派な滝が残っているのは驚きである。
この滝は、数年前まで一の滝から三の滝まであったが、現在は新東名高速道路の開発でいくつかの滝は失われてしまった。
しかし、この開発のおかげで、おいしい湧水を簡単に飲むことができるのは、得なのだろうか損なのだろうかわからない。またこの地区を「滝の谷」ということも何か意味深げに感じるのは私だけだろうか?
いずれにしても今後、詳しく、このあたりを調査し、謎を探求していくことは、新たな静岡市の伝説につながるような予感がする。一緒に探求してくれる調査員を募集したい。ぜひ、ご連絡を!
2020年5月17日 at 9:39 PM
浅間神社裏から梅ヶ島まで続いている山道をご存知ですか?
私山歩きが好きで麻機北の自宅から北の団地の北西方面に有る沢を登り偶然出た道をひたすら辿り梅ヶ島迄歩きました。
歩き出して小一時間で竜爪山に向かう道との別れが有ります。
そこから竜爪山までも歩きました。
静岡の浅間神社から安倍峠やその前にある峠を下って山梨方面にも下りられる様でした。
車の発達する前の交易道、或いは巡礼道はまだしっかりと残っていますよ。