あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。ということで、この1月にふさわしいお話をしていきたいと思います。
今回は「出雲大社」です。
今回の旅は新説「国譲り」ということで、出雲神話をもう一度検証してみようということで始まりました。
きっかけは、長野県にある。「手長神社」でした。
ここに祭られていたのが「てなづちのみこと」であり、八岐大蛇伝説で有名な「くしなだひめ」の母君である。父君の「あしなづちのもこと」を祭る足長神社もこの近くにある。
え!と思った方は実に鋭い。この八岐大蛇伝説。出雲で起こった話じゃないの?
何故、出雲にいるはずの「くしなだひめ」の両親が長野県諏訪に祭られているのでしょうか?こんな疑問から「国譲り伝説」を再調査し始めたのが神崎慎一郎の「新説・国譲り」なんですね。
もしかすると出雲神話は広大な「葦原中津国」のいろんな場所で起こった話を一つにまとめたものかもしれませんね。
今回紹介するのはその総本山といってもいい、「出雲大社」なんですが、本当は昨年のうちに紹介しておきたかったんですが、事情でできませんでした。
実は一昨年は伊勢神宮と並んで出雲大社も遷宮祭を行っていたんですが、昨年は翌年で「おかげ年」という年に当たります。
出雲大社の遷宮は60年に1度。この目出度い都市の翌年が2014年でした。
この年は神様から特別なご利益が授かるといわれています。
「出雲は60年一度」伊勢は20年に一度遷宮するといわれています。
だから大事な年だったんですね。
私たちは大事な年と知っていましたのでしっかりお参りをしてきました。
出雲大社には石ノ鳥居、木ノ鳥居、金属の鳥居と3つの鳥居が一つになっています。
本来神社には3つの鳥居があったとされていますが、現在はたいてい石の鳥居か、木の鳥居しか存在しません。
よくわかりませんが神社の鳥居の中には三つ鳥居と呼ばれるものや「三柱鳥居」と呼ばれる特殊な通り意も存在します。
もともと鳥居は空からやってきた神様が止まる柱とされ、神の使いでもある熊野大社の三本足の八咫烏は有名で、サッカー日本代表のマークにこの八咫烏が使われているのはあまりにも有名なので関心がある方は確かめてみてください。
木の鳥居の近くに平成の大遷宮(だいせんぐう)という木の立て看板があります。
神社はたいてい社殿まで参道は一直線にあります。
明らかに左に拝殿がずれています。
土地もふんだんにあった古代に何らかの理由で社殿がずれるなど考えられませんよね。
何か理由があるに違いない。
参道の玉砂利は皇族が歩く場所で一般人は通行禁止途中になっている。
ここは一直線で470mあり、伊勢神宮は270mしかないのでいかに大きいかがわかる。
途中に大遷宮記念として大杉を3本金輪で束ねた本殿の柱が立っています。当時は48mあったとされています。
この柱の痕跡が2000年に境内から出土したため、古代の話が本当であったことが今回証明された。
10世紀の貴族の記録には、50mの日本一の高さを誇る社殿は出雲大社と記されているので今の大仏殿よりも高かったことが分かっていましたがおとぎ話じゃないのかとまで言われていたのです。(世界七不思議のヘラクレスの話もまんざらうそではないかも・・・。)
なぜなら建築法がよくわからなかったからです。
もともと旧社殿の図面はあったのですがまさかあんなに巨大な柱の跡が見つかり、
それも金属の金具で絞めてあったなんて信じられませんよね。
さらに進んでいくと大国主の像が立っていてひざまずいた「大国主や因幡の白ウサギ、多い波に浮かぶ金色の球の像が出現し、参拝客を圧倒する。
神楽殿には大注連縄(おおしめなわ)がかけられていますが、長さは13m、重量は5tにもなる。
日本最大のしめ縄で「大黒じめ」と呼ばれている。
拝殿では二拝、四拍手、一拝とし、一般的な二拝、二拍手、一拝とは異なっているので注意したい。
拝殿の後ろに回ると八足門(やつあしもん)があり、普通に人はここまでしか入ることはできない。
私はラッキーなことにこの門を入り、楼門まで行くことができました。それも間一髪のところで門は締まり、以降の方は中には入れませんでした。実に幸運でした。
本殿の真後ろには「素鷲の社(そがのやしろ)」があり、息子である大国主を父親のスサノウの命が守っています。
昔から冷気を感じる人たちはこの社から強いご神気を感じるといわれていましたが、以前私がここを訪れてた時、社殿裏手にある基礎のかなめ石を不用意に触ってしまい、「びりびり」と電気のようなものが走ったことがありました。
実に不思議な体験でしたが出雲大社の神秘を直に感じた瞬間でした。
出雲大社を堪能した後は、古代出雲歴史博物館にもよってきてほしいですね。
私が行ったときには熱田神宮の宝物が展示してあり、本物の「日本書紀」を熱田神宮とここ出雲大社で2回も拝見することができたことはまたもやラッキーでした。
ここには25年ほど前に荒神谷遺跡から発掘された銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が発見された。このすべてが今ここにあります。
これまで日本で出土した銅剣は300本に過ぎず、こんなに大量に出土したのは初めてであった。それまで銅剣に関して大陸から渡ってきたのではと考えられていたが、大量にまとまって出土したことから日本でも出雲地方それもこの荒神谷に銅剣の生産工場があったのではと騒がれた。幸運にも私たちはこの後、荒神谷遺跡でここの艦長から直接話を聞く機会に恵まれた。館長の話ではあの山手を地中レーダーで探査した結果、大量の金属反応があるようだ。
もしかすると、とてつもない量の武器がこの地帯に埋まっているかもしれない。
これが出土した時、新説国譲りが新たな息吹を吹き込まれるかもしれない。
出雲軍の駐留地だったら世界がひっくり返るかも・・・。
そう思いながら勾玉をお土産に買いました。
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